2007年 04月 12日
Constructive Concious Control |
昨日、久しぶりに呼吸困難になりながらバレエクラスを受けました。その中で私にとって興味深いことがありました。
バーレッスン中盤のあるエクササイズの最後に、軸足ルルベのアティチュードでバランスを取るときの事です。
形を決めて、バーから手を放した時、「あ、ダメだ!」と思い再びバーを掴もうと手を伸ばしたのですが、なぜか二回も空振り。猫がハエでも掴もうとしているみたいになってしまいました。
バランスをくずした!と思う瞬間に思うことは「大丈夫」または「あ!ダメだ!」のどちらかなのですが、今回は後者のパターンです。
こんな時は心の中に動揺が走ります。そして、その動揺が即座に上半身の緊張という形で反応し、からだの持つバランス反射を妨げ、さらにバランスを崩していくのです。
ところが、昨日はちょっと違っていました。バランスを崩して、しかもバーを二回も空振りして掴み損なって、心の中はすっかり動揺しているというのに、私の呼吸も、首もまったく反応せず平然と静かにバランスを取り続けていました。
結局、バランスははじめから一度も崩れていなかったのです。まるで自分じゃないように、何事もなく5秒以上片足で立っていました。心はあんなに動揺していたというのに。
出来たんだから、喜べばいい!といつもの私なら思うところですが、なんとなく複雑な気持ちでした。
8年前まで踊っていた時、私が毎日のレッスンで何よりも妥協しなかったのは、動きながらどんなときでも呼吸を止めず、首、背中を固めず自由に動ける状態にしておくことでした。始めの一年は、バーに触れて立っただけでわずかな緊張が首に走ったり、呼吸が浅くなったりしてまったく踊ることまで行き着けなかったのですが、二年目くらいから、なんとか動けるようになりました。今でも、やっぱり上半身の動きを制限しないことを一番大切に思ってはいるのですが、やはり弱った筋力では以前のようにはなかなか気が回りません。
でも、ずっと前に徹底してやっていたことを、からだが勝手にしてしまうことがあるんだと、昨日のバランスのときに改めて気がつきました。
そういえば、時々階段から落ちたときや、道で躓いた時に、からだは心の驚きや焦りに反応せず、怪我をしなかったことがこれまでも何度もありました。そのときも「ああ、良かった」と思いつつも複雑な感じがしたのを覚えています。
からだに覚え込ませたものは、思わぬ持続力をもって染みこんでいるのだと少々驚異を感じました。からだの持つ可能性の驚異。そして、自分が積み重ねてきたものが、自分から離れて勝手に動き始めてしまったような驚異。
それと同時に、私が感じる複雑な感じ、その瞬間の自分の心の感情や思いが、からだの反応として出ていない不自然さ、疎外感のような気持ちは、一体何が気に入らないからなのか、自分が何を求めているのかを考えさせてくれました。
バランスなんか取れなくても、自分が驚いたときにからだも驚いて欲しい、自分が見たもの、聴いたもの、感じたことをそのまま余計なものを付け加えず現してくれるからだが欲しい。
単純には、きっとそんなところなんだろうと思います。
複雑な気持ちは、その瞬間に起こっていることを見ずに、「ダメそうだな」という考えのパターンから先走った心の不在に対する不信感なのか、それともよくある習慣パターンとは反対の、不慣れなからだの反応に対する違和感なのか。
深読みすると、どんどんはまっていきます・・・
久しぶりにFMアレクサンダーの「Constructive Concious Control of The Individual」を読んでみたくなりました。(持ってきていないのでエリザベスに借りよう・・)
バーレッスン中盤のあるエクササイズの最後に、軸足ルルベのアティチュードでバランスを取るときの事です。
形を決めて、バーから手を放した時、「あ、ダメだ!」と思い再びバーを掴もうと手を伸ばしたのですが、なぜか二回も空振り。猫がハエでも掴もうとしているみたいになってしまいました。
バランスをくずした!と思う瞬間に思うことは「大丈夫」または「あ!ダメだ!」のどちらかなのですが、今回は後者のパターンです。
こんな時は心の中に動揺が走ります。そして、その動揺が即座に上半身の緊張という形で反応し、からだの持つバランス反射を妨げ、さらにバランスを崩していくのです。
ところが、昨日はちょっと違っていました。バランスを崩して、しかもバーを二回も空振りして掴み損なって、心の中はすっかり動揺しているというのに、私の呼吸も、首もまったく反応せず平然と静かにバランスを取り続けていました。
結局、バランスははじめから一度も崩れていなかったのです。まるで自分じゃないように、何事もなく5秒以上片足で立っていました。心はあんなに動揺していたというのに。
出来たんだから、喜べばいい!といつもの私なら思うところですが、なんとなく複雑な気持ちでした。
8年前まで踊っていた時、私が毎日のレッスンで何よりも妥協しなかったのは、動きながらどんなときでも呼吸を止めず、首、背中を固めず自由に動ける状態にしておくことでした。始めの一年は、バーに触れて立っただけでわずかな緊張が首に走ったり、呼吸が浅くなったりしてまったく踊ることまで行き着けなかったのですが、二年目くらいから、なんとか動けるようになりました。今でも、やっぱり上半身の動きを制限しないことを一番大切に思ってはいるのですが、やはり弱った筋力では以前のようにはなかなか気が回りません。
でも、ずっと前に徹底してやっていたことを、からだが勝手にしてしまうことがあるんだと、昨日のバランスのときに改めて気がつきました。
そういえば、時々階段から落ちたときや、道で躓いた時に、からだは心の驚きや焦りに反応せず、怪我をしなかったことがこれまでも何度もありました。そのときも「ああ、良かった」と思いつつも複雑な感じがしたのを覚えています。
からだに覚え込ませたものは、思わぬ持続力をもって染みこんでいるのだと少々驚異を感じました。からだの持つ可能性の驚異。そして、自分が積み重ねてきたものが、自分から離れて勝手に動き始めてしまったような驚異。
それと同時に、私が感じる複雑な感じ、その瞬間の自分の心の感情や思いが、からだの反応として出ていない不自然さ、疎外感のような気持ちは、一体何が気に入らないからなのか、自分が何を求めているのかを考えさせてくれました。
バランスなんか取れなくても、自分が驚いたときにからだも驚いて欲しい、自分が見たもの、聴いたもの、感じたことをそのまま余計なものを付け加えず現してくれるからだが欲しい。
単純には、きっとそんなところなんだろうと思います。
複雑な気持ちは、その瞬間に起こっていることを見ずに、「ダメそうだな」という考えのパターンから先走った心の不在に対する不信感なのか、それともよくある習慣パターンとは反対の、不慣れなからだの反応に対する違和感なのか。
深読みすると、どんどんはまっていきます・・・
久しぶりにFMアレクサンダーの「Constructive Concious Control of The Individual」を読んでみたくなりました。(持ってきていないのでエリザベスに借りよう・・)
by ericolex2323
| 2007-04-12 18:37
| アレクサンダー・テクニック