2009年 06月 10日
「できる」と「わかる」 |
この一ヶ月、アレクサンダーテクニックを教えることよりも、自分のからだを使って踊ることに時間を多く使ってきました。
一見趣味に走って仕事をしてないようなこの状況は、実は私にとっては、日常においても、教えにおいても「自分の使いかた」により集中した妥協のない状態に自分を持っていくことに他ならないのです。
実際に目標をもってからだを使っていくなかで、切に感じるのは、「わかる」のと「できる」のは違うということ。
いくら分かりやすく説明してもらっても、それが「できる」ことにつながるかというとそうとは限らないのです。
また、いくら自分が「わかった」と納得したとしても「できる」ところまでいくには、やはり自分のからだと感覚を使って、繰り返し練習(体験)することでしか、「できる」ようにはならないのです。
本当の理解というのは頭や知識の問題ではなく、心身一体、自分のすべてが「わかる」ことなのです。
踊りでは、「わかる」「できる」は、はっきりと残酷なまでに暴露されますが、これが日常の動作の場合、ついうっかり「わかる」を「できる」と置き換えてしまうことが少なくないのではないでしょうか。
アレクサンダーテクニックは「わかりにくい」という評判を比較的聞くことも多いのですが「わかる」から「できる」わけでもなく、「わかりにくい」というのは正直な意見だなあと思います。
何しろ、私でも「よくわからない」と思うんですから。
かえって、「わかる」というのは「すでにその人が知っているものを納得いくように探り当てた」ということが多いんではないでしょうか。
私は、自分の生徒さんには「わかる」ことよりも「できる」ことを重視したいと思います。
もちろん結果に走ってはいけませんが。
教師の立場としては「わかった!」「わかりやすい!」と言ってもらうと安心して気分が良くなるのですが、これもひとつの「結果にはしっている」ことなのですよね。
本当に「わかって、できる」かどうかは、しっかりその人を見ていればすぐにわかります。
実際レッスンでは「わかった、できた」より「できた!でもわからない」というほうが多いというのも興味深いです。
アレクサンダーテクニックでで目指している「できる」というのは、「今自分のレパートリーにあるものを総動員したベスト」ではなく、「自分の守備範囲を超えるその瞬間のベスト」であると私は考えています。
一見趣味に走って仕事をしてないようなこの状況は、実は私にとっては、日常においても、教えにおいても「自分の使いかた」により集中した妥協のない状態に自分を持っていくことに他ならないのです。
実際に目標をもってからだを使っていくなかで、切に感じるのは、「わかる」のと「できる」のは違うということ。
いくら分かりやすく説明してもらっても、それが「できる」ことにつながるかというとそうとは限らないのです。
また、いくら自分が「わかった」と納得したとしても「できる」ところまでいくには、やはり自分のからだと感覚を使って、繰り返し練習(体験)することでしか、「できる」ようにはならないのです。
本当の理解というのは頭や知識の問題ではなく、心身一体、自分のすべてが「わかる」ことなのです。
踊りでは、「わかる」「できる」は、はっきりと残酷なまでに暴露されますが、これが日常の動作の場合、ついうっかり「わかる」を「できる」と置き換えてしまうことが少なくないのではないでしょうか。
アレクサンダーテクニックは「わかりにくい」という評判を比較的聞くことも多いのですが「わかる」から「できる」わけでもなく、「わかりにくい」というのは正直な意見だなあと思います。
何しろ、私でも「よくわからない」と思うんですから。
かえって、「わかる」というのは「すでにその人が知っているものを納得いくように探り当てた」ということが多いんではないでしょうか。
私は、自分の生徒さんには「わかる」ことよりも「できる」ことを重視したいと思います。
もちろん結果に走ってはいけませんが。
教師の立場としては「わかった!」「わかりやすい!」と言ってもらうと安心して気分が良くなるのですが、これもひとつの「結果にはしっている」ことなのですよね。
本当に「わかって、できる」かどうかは、しっかりその人を見ていればすぐにわかります。
実際レッスンでは「わかった、できた」より「できた!でもわからない」というほうが多いというのも興味深いです。
アレクサンダーテクニックでで目指している「できる」というのは、「今自分のレパートリーにあるものを総動員したベスト」ではなく、「自分の守備範囲を超えるその瞬間のベスト」であると私は考えています。
by ericolex2323
| 2009-06-10 01:46
| アレクサンダー・テクニック